「ダルいし面倒だけど仕方がないからやるか」

スタンディングデスク

集中力が出ないな~ってことでスタンディングデスクとトレッドミルを購入した。まだ届いていないので使用感は不明。

スタンディングデスクって色々と言われているけど、自分では試したことがないのでどういうもんなのかは未だに分からない。

出社していた頃は一部の人は立ったりして仕事していたのを見ていたけども、自分は一切立って仕事をしたことがない。なぜなら座っていても集中できたからだ。

問題は今。単純にずっと座り続けているので、座っているという状況にすら飽きている感覚がある。そして全く集中力は維持できない。

ずっとキーボードを触っていると、キーボードを触ることにすら飽きてくる。学校に通っていた頃とかであれば、そこまでPCの前に座っていることは無かったので、家に帰ってきてからのPCが新鮮だった。それと似たようなものではある。

ずっとマウスとキーボードを触っているとそれにすら飽きてくるように、ずっと座っていると座っているという行為にすら飽きてくる。

それならずっと立っていると立っている状況にすら飽きるのでは? という話になってくるのだけど、そこはトレッドミルで歩いていれば解決するんじゃないかと少し期待している。

集中

鬼滅の刃で全集中!とかいう言葉が流行った。あんな感じで集中力を出すときには、集中するぞ!という意気込みが必要になってくる。

出社していた頃は仕事をせざるをえないというか、集中できずに仕事をすると苦痛だった。遊ぶことができないからだ。

例えば、集中して仕事をしていれば時間がすぐに経過する。気づいたら1時間経っていた、というのを少し繰り返せば一日が終わっているという寸法だ。

面倒だなぁとかだるいなぁと思いながら仕事をしていれば、それだけ苦痛が増す。苦痛を減らす為に集中していたようなものだ。

ところが自宅にいるとなると、集中して仕事をしなくても苦痛を減らす方法がいくらでもある。Youtubeを見るのでも良いし、他にもベッドで寝ていても良い。Twitterを見ても良い。

そんな感じで集中力を出そうと頑張らなくても、苦痛をそらす方法がいくらでもできてしまう。それによって集中力を出そうという気持ちが一切なくなってしまった。

自分の場合は成果に集中するというよりも、今のこの時間を健やかに過ごす為に何かをするということしかできない。

その立場からすると、集中というのも、今の感覚を良くするために使っている手段に過ぎないという感覚が強い。

「集中するぞ!」と意気込んで集中するというのは、「ジョギングに行くぞ!」と思って着替えて外へ行くのと同じくらいの意志力を使用する。その意志力を行使するだけの気力が無い。

勝手に集中が生まれて欲しい

そんな感じなので、自分の意志力を行使する方向はあまり気乗りがしない。理想を言えば、勝手に集中力が生まれていて欲しい。

だからこそスタンディングデスクとトレッドミルを買った。これで少しでも「だるさ」みたいなものが緩和してくれれば申し分ない。多分慣れたらだるいんだろうけど。

とはいっても、立っていても座っていても、この「集中するぞ!」の切り替えみたいなものは、ずっとハードルであり続けるんじゃないかなと思っている。少しだけそこへのハードルが低くなるだけなんじゃなかろうか。

座っている状態からトイレに行くのはとても面倒だけど、立っている状態からトイレに行くのは少し面倒である。面倒の度合いが減衰しているが、面倒は常に存在している。

立っている状態から「集中するぞ!」とするのは多少は楽かもしれないが、常にそこに落差は存在している。その落差を乗り越える分の意志力は、スタンディングデスクだろうが必要になってくるんだろうなと思っている。

一度知るとやる気が消滅する

ちょっと思ったのだけども、何らかの目標を立てて、そこへ向けて何かを頑張るという行為がもう無理かもしれない。常にそこに面白みみたいなものが存在していないと不可能だ。

何か新しいことを知るという過程が無いと、あまり自分の場合はやる気にならない。受験勉強はなぜできたのかと言えば、やっていると必ず何かしら新しいことを知れたからだ。

新しいことを知るというのは快感なので、その快感によって集中の苦痛を緩和していた。プログラミングもそうではある。未知のことを知るという過程として、プログラミングを習得していた。

動画編集も似たようなものだ。動画編集の過程みたいなものが分からなかったので、それを知るためにやっていたように思える。

逆に、一度そこから知れるものを知ってしまうと、全くもって続かなくなる。「なるほどなぁ」になって納得した後は急速にやる気が維持できなくなってくる。

これを解決しようとしていたけども、無理なのでは?という気が最近はしている。しかも特に発信欲が無い。「なるほどなぁ」で得られた知見を人と共有したい、という気持ちもそこまで強くはない。一度まとめてしまうと満足してしまう。

歯磨きみたいにやる

この傾向を踏まえた上で、逆にそれでも何かを続ける方法ってのはあるんだろうか? とは少し考えている。その方法を知ってみたい気持ちはある。

興味関心が湧く→ある程度やってみる→ある程度分かったので興味関心を失う→やらなくなる

のループを繰り返している訳だが、これはどうしたら解決され得るのか? そこを問題視しているが、解決策は今のところ見えない。

仕事が鍵になるんだろうか? 仕事でやっていることは完全に飽きている。飽きてはいるが続いている。なぜならそれをしないと生活ができないからだ。

誰かが、小説家は小説を歯磨きみたいに毎日やっていくのが良い、と言っていたのを思い出す。歯磨きは面倒だけど毎日やる。なぜなら歯磨きをしないと大変なことになることを知っているからだ。

納税も一緒だ。納税をしないと大変なことになることを知っているから、いくらダルくてもいつかはやる。バイクの車検も一緒だ。

仕事もそれと同類のものではある。飽きていてもやらないと大変なことになるので、仕方がないからやる。

趣味の範疇だと快楽を重視していたけども、この「仕方がないからやる」をどうにか適用できれば良いのかもしれない。

しかしながら、この反対には「やらないと大変なことになる」という感覚が存在している。趣味の範疇の行為で、それは適用できるだろうか?

大変なことになるか?

例えば、絵について考えてみれば、別に絵を辞めたところで大変なことにはなっていない。特に支障なく生活できている。

Noteへの投稿を辞めていたところで別に生活に支障はない。日記を書かなくなるとどうなるのか?

この日記がなんだかんだ続いているのは、日記を書かないでいると思考がまとまらないからだ。今回も思考をまとめるために日記を書いているフシがある。

思考がまとまらないまま放置しておくとどうなるかというと、精神的なストレスが上がっていき、最終的にメンタルが大変なことになっていく。それが分かっているので、ちょっとダルいなぁと思いながらも日記を書くことができている。

動画編集についてはどうだろうか? やらずにいると大変なことになるだろうか? いやならないな。別に支障なく生活はできてしまう。

去年の夏くらいに禁煙をしていたので、3~4ヶ月くらい動画どころか何も作らずに過ごしていた。あの頃に大変なことになっていたかといえば、そうではない。特に支障なく生活できてしまっていた。

ある行為に慣れて飽きて、その上でそれをやらなくても生活が回るのであれば、人はその行為をやらなくなってしまう。他の新しいことをやっていた方が新奇で楽しいからだ。

他の人で考えたらどうだろう

となると、自分に当てはめて考えてみれば、特に大変なことにはならないということが分かる。別に動画編集をやっていなかったとしても、バイクに乗っていればまぁ満足できるからだ。

ならば、他の人はどうだろうと考えればどうだろうか。例えば、Fラン大学就職チャンネルの中の人は、Fラン大学での情報格差を憂慮して情報発信をしているらしい。世の中に大変なことになっている人がいるので、その人達を救おうという心持ちだ。

他にも精神科医の益田は、世の中の精神科というものへの印象と、精神医学の知識を一般に広めて人を救いたいという思いでやっているように見える。

しかしながら、自分はわりと「人は人を救えない」という気持ちが強いので、この観点もかなり難しい。せめて「人は人を救える可能性がある」くらいに思えれば良いのかもしれない。

思い返してみれば、Noteにぺこらの記事を書いたのも「こういう面白い人が居て、ハマれば楽しくなれますよ」という一言を長文化したものに過ぎないのかもしれない。まちカドまぞくの動画も「こういう漫画が面白いので、ハマれば面白いですよ」と言っているに過ぎない。

人はどう救えるか?

Fラン大学就職チャンネルの人であれば、就職情報を世に広めている。益田であれば精神医学の知識を一般化するために動いている。自分の場合はどうかと考えると、特に何もないなと感じてしまう。

あーでも、「何かを作っていれば人は救われるのでは」と少し考えている節がある。なぜかというと、何かを作って集中していれば、忙しくなるので他に余計なことを考えずに済むからだ。そして人は救われる。

仕事をプラグラミングという何かを作る関係の仕事にしているのも、何かを作っていれば人って満足するんじゃない? という思想を根底にしている。そこが根っこにあるのかもしれない。

つまり、「何かを作っていけばいいのでは?」という情報を発信すれば良いのかもしれない。そこを軸にして、何かしら面白いものが見つければ「これ面白いんで、ハマれば生活が豊かになるかもしれませんよ」と発信すれば良いのかもしれない。

ペルソナの作成

Fラン大学就職チャンネルでは、ターゲットは就活を恐れている大学生以下の学生だろう。益田であればメンタルを病んじゃっている当人や、その周囲の人間だ。

そんな感じで、苦しんでいる対象を頭できちんと思い描くと良いのかもしれない。そこへ向けて作るという観点で、かつ、面倒だけどやるか、の態度でやっていけば続くかもしれない。

「何かを作っていれば人は幸福なのでは?」の対象は、この価値の無い世界で漠然と悩んでいる人を思い描けば良い。

一方で、「こういう面白いものがあるんでハマったら良いですよ」の対象は、何か面白いことないかなと退屈している人を思い描けば良い。

結局のところ、自分自身で感じられる面白みは、慣れてくればくるほど減衰していく。加齢でも減衰していく。その面白みだけでどうにかなるのは若いウチだけかもなと思う。

となると、「仕方ないし面倒だけど大変なことになっている人を助けてやるか」くらいのテンションが一番良いのかもしれない。

本業と趣味

ある分野を本業にしている人は既に面白いとかそういう段階ではなく、心を無にしてスキルを使って仕事をこなしているだけなんだろうなと思うことがある。

中堅以上の芸人なんかを見ていると、そういう態度が伝わってくる。若手みたいな人はまだ楽しんでいるのだけど、芸能界に慣れきっていると、スキルは凄いのだけど、楽しんでいるという感覚は見えない。ノブコブの吉村なんかは特にそういう感じがする。オードリーの若林なんて、もうほぼ人を助ける気持ちしかなさそうだ。

ジャルジャルなんてほぼ毎日のようにネタをアップしているけども、あれはもう職人に近い。毎日のように向上に行って高精度なネジを作っている職人と似たようなものだと思える。

本業の場合は「社会における役割を全うする」みたいな感じで、淡々とやっていくのが正解だ。淡々とやっていけばたまには面白いことも起こるし、それで生活もできていく。今のプログラミングに対する態度はまさにそんな感じだ。

趣味の場合はどうかというと、別にやってもやらなくてもいい。たまに「楽しいからやる」って人が居て、それは同意なんだけども、続けていくと大半の人は飽きてくるので、大半の人は続かない。一部の人は熱狂的にハマったままだったりするが、それは少数派だ。自分はこの点で言えば多数派に属している。

こうして考えてみると、やっぱり歯磨きや納税と同様に、どうにかして「仕方がないけどやるか」の構造に持っていくのが、趣味を続けるには良さそうだなと思う。

そして本業と同様に、続けていくと何か面白いことが起こったりする。たまに知識のアップデートが走って楽しいこともある。そんな感じじゃないだろうか。

まとめ

モチベーションの形は、

というのが良いのかもしれない。

人によっては承認欲求だったり、金銭だったり、名誉だったりがモチベーションになるんだろうけど、自分の場合はそこら辺の感覚がすぐに死んでしまう(長続きしない)ので別の形を模索しないとならない。当分はこの態度でいってみようと思う。