寒い ザ・メニューが面白かった

寒い

さみ~~~~。凍えるほど寒い。手がかじかんでマウスを操作するのが億劫なのと、キーボードをうまく叩けないくらいには寒い。

自分はだいたい午後10時以降くらいに活動することが多いのだけども、この時間帯の冷え込みはヤバい。ヤバいので布団の中にこもって本を読むことしかできない。とにかく部屋が寒い。

エアコンは限界まで働かせているが、それでも手がかじかむ程度には寒い。冷気のせいでPCの前に座る気力が出てこない。

というわけで、色々と防寒グッズを買った。こたんぽと手袋とブランケットだ。こたんぽは着られるこたつみたいなグッズだ。これで下半身の暖かさは確保される。

手袋はキーボードが叩けるタイプのものを買った。ブランケットは加重のもので、これは各地で評判が良いので試しに買ってみた。

部屋を暖かくする方向は諦めることにした。日本の住宅事情はgmなので、これをどうにかできる気はしない。もう諦めて次善の策でいくしかない。

部屋の外が寒いのはまだ納得できるが、部屋の中が寒いというのは納得ができない。キーボードも冷たくて打つ気が失せる。

真夏と真冬だけはどこかウィークリーマンションでも借りてそこで過ごそうかなとすら考えてしまう。それくらい耐え難い。昔ってこういう寒さが当たり前だったのか? なんで暖かくなるような構造にしないのか不明すぎる。まぁ、小学校でエアコンを使わないような国だし仕方がないのか。

あとは防寒具だよりだ。早く届いて欲しい。仕事も作業もどちらも単純につらい。

ホラー作りたい

色々と考えてホラー作りてえなあとなったんだけども、ホラーの作り方が全く分からない。どうやって作れるものなんだろうか。

だいたいのものって質を考慮しなければ作れるものだとは思っている。とはいえ、ホラーの取っ掛かりが全く分からない。呪いのビデオみたいな感じにすればいいのか?

本当に怖いホラーって論理的な要素が崩壊しているものが多い。意味が分からなければ分からないほど怖くなる気がしている。

例えば、地方の村に行ったら謎の奇祭が行われいて、そこで異常な現象に出くわす、みたいなものはホラーなのか? とすら思っている。フォーマットにしたがってしまうと、エンタメではあるけどホラーではなくなってしまう。

呪いのビデオにしても、何かの呪いという時点で現代だとすでにホラーではない気がしている。呪いという形式が既にフォーマット化しているからだ。エンタメならばそれで良いんだけども、ホラーではなくない? と思えてしまう。

でもフォーマットに従った上で、意味の分からない要素を取り込めればそれが一番良いのかもしれない。意味が分かると怖い話は怖くはない。もっとスッキリとしない、嫌なモヤモヤだけが残るような意味でのホラーが作ってみたい。

しかしながら、それって難しいなと思う。嫌なモヤモヤをどうすれば残せるのか? ってのを考えているけど、全く分からない。まぁ、やってみるしかないか。とりあえず手を出してみて、その後にまた考えてみよう。

最近は共感をテーマにして動画を作っていたんだけども、共感の作り方みたいのはなんとなく手落ちになってきた感がある。作れるといえば作れるけれども、ここを掘っていってもなぁ、という感覚がある。

そこで、共感の真逆を考えてみると、ホラーというジャンルに行き着いた。相手の正体が分からければ分からないほど怖いからだ。この正体不明のものに対する恐怖、みたいなものが作れれば幅が広がるのでは? という気がしている。

とはいっても現状は全く作れる気はしていないので、チョロチョロとやっていくしかなさそうではある。

ザ・メニューを見た

なかなか面白かった。ネタバレ全開。

藤本タツキが褒めたツイートで初めて知った映画なんだけども、見てみたら褒めている理由がなんとなく分かった。

この映画におけるシェフvs客の構図は、どこの世界でも見られるものだ。漫画家vs読者、映画監督vs観客、などなど、どの分野でもサービスの提供者とそれを消費するものが居る世界であれば成り立つ話をしている。

客のバラエティの豊かさも良かった。どの客の在り方も、これまたどんなサービス産業でも成り立つ造形をしていた。何も考えずに消費している客が居たり、偉そうに批評する人間が居たり、その分野のことは愛しているけれども裏にあるネタを色々とバラすような行為を繰り返す客が居たり。

この映画を藤本タツキが面白いと思ったという点が、まず面白い。漫画家ならば確実にシェフ側に感情移入しているはずだからだ。うんうん分かる分かる、みたいなテンションで視聴していたんだろうか。

副料理長が自殺するという展開も良い。夢を見ていた業界に入ったら現実を叩きつけられ、最終的にメンタルを病んでしまう。これもどの業界でもありそうな話だ。

他にも、料理ヲタクの人間が衆人環視の中で料理をさせられて、辱めを受けた挙げ句、自殺させられるという展開も良かった。このシーンを見ていた映画ヲタク達はギョッとしたんじゃないだろうか。

明らかに悪とみなせる批評家の客も居た。批評によって数々のレストランを閉店に追いやった女性だ。この人は割りとシェフの側からすれば悪役認定しやすい客だと思う。

それよりは、料理のことが好きで好きで堪らなくて、料理ヲタクになってしまい、シェフのことも尊敬しているような人間を自殺に追いやる、という展開にシビレた。そういった愛は作り手からしたら結構ウザいものなのかもしれない。

一番良い客は、部外者である主人公の女性だ。食べたいものを頼んで、ただ美味しいと述べる。あとはお持ち帰りを頼むという機転も効かせて島からの脱出に成功している。

この映画をこういった展開にするということは、製作者は映画に対しても同じ態度を求めているのでは? とメタな勘ぐりをしてしまう。でもそれも含めての作品なのかもしれない。色々と考えてしまってとても面白い。

ザ・メニューという映画そのものが、コースとしての体を成していた点も面白かった。料理が一品ずつ出されるたびに、メニューが提示される。そのメニューが映画の構成と薄く繋がっているようにも感じられた。

この映画が叩かれている原因の1つは、サービスの消費者を作中で叩いているからかもしれない。映画が観客を喜ばせるのではなく、暗に観客を批判している。それが気に入らない人はたくさん居るだろうなと思う。更には作品そのものが批評という行為を封じている。見た人間は「面白い」としか言えなくなってしまう。

映画を見た後に、サービス提供者は何をすれば良いのか?って考えてみると、シンプルにチーズバーガーを楽しく作っていれば良いのかもしれないと思った。

逆に、サービス消費者側はお腹が空いた時にチーズバーガーを食べれていればそれでいいのだ。どうして凝った料理を食べる必要があるというのか。

これもまた最近の「体験偏重主義」みたいへの批判のように感じてしまった。これはうがちすぎかもしれない。特別な体験なんてものは人間の愚かしい虚栄心を反映したものに過ぎないのでは? という考え方だ。

岡田斗司夫が前に言っていたことを思い出した。要するに、サービスに何かしらの思想を込めるってこと自体がくだらないのかもしれない。それを消費する側はそんなものは求めていないし、ただ腹が減っているだけなのだ。そして、その思想を持ち上げる連中は得てしてくだらない人間ばかりだということでもある。

サービス提供者側に対しても、消費者側に対しても、どちらへ対してもの警句なのかもしれない。提供者側は道を誤ればシェフになってしまうし、客側はシェフに殺される運命にある。ならば何も考えずにおいしいチーズバーガーを頬張っていればいいのだ。