言葉の枠から外れたものを出力する

色々と思うことがあるので日記を書いていく。

ずんだもん舐達麻動画の反省

反省というか、フィードバックを受けての分析という感じではある。

仮説として色々と立てていて、そもそもずんだもんを好きな人間と舐達麻を好きな人間は交わらないというのは分かっていた。

超少数は居るみたいだが、超少数なので仕方がないな、という感じではある。舐達麻を好きな人はずんだもんなんか見ないし、ずんだもんを好きな人は舐達麻というワードには惹かれないというのがある。

それら2つの接合部みたいなものが作れないかな、と思っていたけど、結果的にどっちつかずの動画になったのかもしれないなと思う。

解説系ならもっと深掘りをすべきだし、ずんだもん動画としてはまぁ悪くはないと思っているけど、ニーズとしては微妙だったなあという感じだ。

今回はルーレットでネタを決めたというのもあり、動画作成のモチベーションも微妙だったなあという反省もある。

とはいえ、いつかは作っていただろうし、作りたくて作ったみたいな部分はあるので後悔は無い。

わりと心配をしているのは、動画が再生されない→モチベーションが無くなる、という流れにある。

モチベーション

大多数の人間は動画がたくさん再生されれば嬉しいし、あまり再生されないと嬉しくない。嬉しければもちろんそれはモチベーションとなる。

問題は動画が再生されないときだ。この場合は外発的な報酬がない状態だと言える。

給与が無い状態で仕事に熱意を持って取り組めるだろうか? という点にある。流石に給与が払われない場合は想定しづらいので、給与が下がった状態で仕事に熱意を持って取り組めるかを考えた方が良い。

こういうときに良く言われるのは内発的モチベーションがどうのこうのという話だ。いわゆる「やりがい」とかいうものの話になってくる。

一口にやりがいといっても色々とある。問題は自分の中でそれをどう設定できるかという点にある。どう論理だてられるかと言い換えても良い。

そんな訳で、モチベーションについて考えているのだけども、継続というのは本当に難しいなと感じている。

自分の場合は何かができるまでは結構モチベーションが続く方だ。たとえば、動画作成をやったことない状態から、動画作成が可能になるまでは割りとモチベーションが湧いたりする。

プログラミングもそうで、ほとんど何もわからない状態の時の方がモチベーションが高かった。まぁ、これは初期状態だとどんどんとやれることが増えていくので、割りと多くの人に当てはまるかもしれない。

問題は何かができるようになった後だ。動画作成ができます、といった後に、じゃあ何を作っていくと自分のモチベーションが高まるのか? 自然とやっていけるのか? というのが判然としない。

動画でしかできないもの

日記は続くので、日記的にやっていけば良いのでは? と考えたりもするが、日記的に動画を作るってのもイマイチ判然とはしない。

何事であれ、自己の思考や感情を吐き出すという行為には快楽が伴う。日記の場合はそれを直接的にやっている気がする。

動画でしか吐き出せない物があるか? というのが焦点にある気はしている。

会話や文章で伝わるような中身であればそれで十分だ。それでは表現できないものを表現しようとすればモチベーションが湧くのかもしれない。

とはいっても、そんなものあるか? という疑問はある。禁煙の苦しみは文章では伝えられないなと感じていた。それと同様のものはそうそうあるものではない。

また、この「文章では伝えられないもの」理論の難しいところは、動画を作るには脚本が必要だという点だ。脚本にしている時点で文章に変換してしまっている。まぁ、自分で脚本を書く場合は映像のメモという役割ではあるので、一概には言い切れないかもしれない。

自分の場合は絵にしても動画にしても、字は言葉ではないものを使ったコミュニケーションのメディアとして扱っている感覚がある。だから説明できないものが良いのかもしれない。

これについて説明したいけど、できないし伝えられる自信が無いんだよなぁ、というものの方が一番モチベーションが湧くのかもしれない。

そう考えてみると、いま動画にしようとしているCBDグミの話と、生産性中毒の話は割りと当てはまっているかもしれない。無意識的にそういうものをネタとして選んでいるっぽい。

結局のところ、色々とインプットをして、言葉の枠から外れたものを集めていけば良いだけの話かもしれない。

かもしれないしか言ってないが、イマイチ感覚が不安定なので、言い切ることができない。

とはいっても、上を考えると結構ずんだもん舐達麻動画の反省点がハッキリしてきた。つまるところ、あの動画はどこがテーマなのかが釈然としないのだ。

禁煙の場合は禁煙を苦しむ過程、尿酸値の場合は尿酸値って怖いよという事実、その辺りが中心になっていた。一方で、舐達麻動画の場合は説明と感情のどちらにも軸足をおいていない。つまり中途半端になっている。

動画のテンポや流れは良かったとは思うが、その中途半端さが反省につながっている。今度から「言葉で説明することを諦めた点」をハッキリとさせた上で動画を作った方がもっとモチベーションが湧きそうだ。

日記を書くと思考が整理される

なぜかはわからないけど、とりあえず書いていくと思考が整理される。毎度のことながら不思議だなぁと思う。

完全プライベートで書いてもそういうことはないので、誰か分からない誰かに語りかける感じが良いのかもしれない。

実質独り言ではあるものの、2人称を想定しないと本気で考えるということが自分はできないのかもしれない。

動画もそういう感じで、ある誰かにこのことを伝えよう、という気持ちでやった方が良さそうではある。そして、その内容はできれば言語化が難しいことをテーマとした方が良い。

そんな感じでやってみようかなと思った。