継続するシステム

2023年らしい

RiJを見たりM1を見たりクッキークリッカーをプレイしたりしていたらいつの間にやら2023年になっていた。あまりやる気というものが戻っていない。仕事は割りとすぐに始まるのだけども、それに対してただただ怯えている。人は慣れる生き物で、怠惰な生活にも仕事のある生活にもすぐに慣れてしまう。恐ろしいものだ。

やる気が無くなる原因の主な理由としては、前々からずっと思ってるんだけども、恐怖心が主要因の場合が多々ある。何を恐れているのかといえば、それは各々なんだってある。

完成度を求められるアウトプットを求められると、人はすぐに萎縮する。なんにも考えずに、ただアウトプットをするだけならいつだってできるのに、それに大して怯えてしまうところがある。

恐怖心

絵の時もそうだったんだけども、ある程度慣れてきた後には恐怖心との戦いが待っている。自分の場合はなにが怖いかといえば

これが大きいなと感じる。自分の場合は、アウトプットに上記のいずれもが伴っている。ここに載せている日記に関してはどれもなくて、ここでただ考えている感覚なので、これらが無い。純粋な暇つぶしという感覚だ。だから続いている面がある。

それにこの日記の場合は評価というものがない。やはりどのプラットフォームでも評価というものがつきまとうのが恐ろしい。Twitter、Pixiv、Youtube、Note、どのプラットフォームでも、そこにアウトプットされたものには評価が伴う。数値と言い換えても良い。

それらがアウトプットへの恐怖心を生んでいる気がする。正論としては「そんなものは気にしないでいろ」というものが言える。とはいえ、気になってしまうものは仕方がない。意図的に無視しようとしても、無視できない場合は往々にしてある。

その場合にはどうしたら良いのか? 未だ答えは出ていない。まぁ、全てを無視して手をちょっとでも動かしてしまえばなんとでもなる。

例えば、冬の時期に外出するのはとても面倒臭い。でも一歩家から外へ足を踏み出してしまえば、その面倒臭さはどこかへ霧散する。それと同じことがこの恐怖心にも言える。

ただ手を動かしてしまえば良いのだけども、そこに至るまでにグダグダと考えてしまうのがよろしくない。なかなか大変だなと感じる。

2022振り返り

なんだか2022年はなんとも言えなかった。ダルい年だったなという感覚がある。動画制作を始めてみたり、絵を描くのを辞めてみたり、AIが進歩したり、戦争が始まったりと、色々とあったけども、とはいっても何も無かった感覚が大きい。

生活に変化が無いというのは恐ろしいものだ。無職でいるのには才能が必要だと言われている。これはこの変化の無さへの適応性とも言いかえても良い。いくら変化させようと思っても人間の生活というものには変化はない。変化が無いと不安になる。

2022年は変化が無く、ぼんやりとした不安みたいなものに常々さらされていた気がする。禁煙を試みたのもその一環だった気がする。何をしても変化が無いので、とりあえず分かりやすい変化を求めていた。

とはいっても、そんな分かりやすい変化をさせたところで人間には変化はない。2024年の年明けも同じ生活をしているのではないだろうか。M1を見て、RiJを見て、なにやら適当にゲームをプレイしていたら年が明けている気がする。

無理に変化を求めると、だいたい良くない結果になるという感覚が常につきまとっている。それよりは、淡々と日々の仕事のように、何かに打ち込んでいる方が良いのでは、というのが自分の今の生き方ではある。

多分、今であれば動画を作っているのが一番良いのではという感覚がある。とはいっても、そこまで動画制作がしたい訳では無い。ああ、全てはそこに通じている。

継続に伴う困難

人は継続をすることができない。これは前提だ。もう何がどうあがいても、人は継続をすることができない。原理的に、飽きてしまうからだ。

そういった意味では、自分も動画制作というものに飽きている感覚がある。では日記は飽きないのはなぜか? 何も考えなくても良いからだと思う。そんな感じで何も考えなくても良いのだけども、色々と考えてしまうのがよろしくない。

あとはまぁ、何をするかを決めてから動いているのが良くないのかもしれない。日記の場合は「○○について書こう」というのはかなりぼんやりとした部分から始まっている。動画制作の場合はテーマを一つ決めてから「よし、やるぞ」と決めてかかっている。絵の場合も同じだった。

そうではなく、ただぼんやりと始めてみて、何かができあがったら形にしていくという形が良いのかもしれない。もしくは、この日記の内容をそのまま動画の形にしてしまうのか。そういうのが良いのかな。

あまり商業的に考えていくと継続なんてものはできない。なぜなら、個人の発想なんて大概は面白くないからだ。その面白くないものにリソースを費やすという流れをどこかで絶たないといけない。

ある意味、多少の成功がない方が継続はできる。成功がないことが前提になるからだ。少しでも成功があると継続が困難になる。この日記だって、どれかの記事がバズったらこう自由には書けなくなるかもしれない。ある種の閉鎖性が継続を成り立たせている。

Noteも書く気にはならない。あそこは公開された場所だからだ。公開された場所に何かを載せようとすると、途端に緊張感が生まれる。あのダルさが人を継続から遠ざける。

いま思い出したけども、Noteで書こうと思ってなんかダルかったから動画にした記憶がある。Noteからの逃避としての動画だった。なぜならNoteで書いた記事が少しウケてしまったからだ。それがプレッシャーになっていた気がする。

となると、動画からまた逃げ出すのか、という話になってくるが、これもどうするかなという感じだ。

ネタは何でも良い

ネタはなんでも良いという前提を忘れてはならない気がしている。そこに拘っていたら一生着手できないからだ。Noteに書くにしても、絵を描くにしても、動画を作るにしても、題材となるテーマは本当になんでも良い。なんならそこを機械的に決めてしまった方が良いのかもしれない。ルーレットとか。

ルーレットで機械的に決めるというのはアリな気がする。結局のところ、いくつかある候補の中から一つを決定することが難しいのだ。どれか一番やりたいものがあれば別だけど、大抵の場合はそんなでもない。どれをやっても別に一緒かなという気がしてしまう。

それならルーレットで決められてしまった方が気が楽だ。人は選択肢が無くなった方が逆に幸福だったりもする。

この流れで、機械的にやっていくシステムを作ってみようと思う。どうにも気持ちでどうにかなる問題でもないらしい。継続する努力というのはあるけども、自分が継続できる仕組み作りに注力しないといけないなと最近は感じている。

とにかく継続するシステムを作り上げるのだ。2021、2022は何かを始めて定着させる年だった。今年は継続する年にしていきたいなと思う。他に候補があるなら別だけど、無いなら逃げていてもどうにもならないという気もしている。