いい人戦略と決めのハッピーエンド

いい人戦略

岡田斗司夫が良い人戦略というものを唱えている。ここ数日色々とあったので、このいい人戦略について考える機会が多かった。

いい人戦略とは端的に言ってしまうと「否定的なことを言うのをやめて、共感だけをしていこう」というものだ。公序良俗に反するものでない限り、どんなものでも認めていこう、みたいな姿勢だと自分は解釈している。

これをやらないとどうなるかというと、段々と孤立していく。なぜなら今のコミュニケーションの主体というのは、共感を基にしているからだ。何物にも共感できないでいると、誰ともコミュニケーションが取れなくなっていく。

考えてみれば当たり前のことかもしれない。人は群れる生き物であり、思想信条を共にする者と集まりがちだ。現代では宗教や政治的思想の代わりに、何が好きか、何が推しかをコミュニケーションの軸にしているに過ぎない。

ここで否定を入れると、なるほど自分とは思想信条が違うのか、という印象を与えてしまう。そうやって徐々に孤立していく。

知り合いが「どんなものでも楽しめた方が良いじゃん」と言っていたけども、これも的を射ていると思う。どんなものでも共感できて、面白い、楽しいと思えた方が現代では得だ。

自分はこのいい人戦略的な思想に5年前くらいに気付いた。ここで気付けてなかったとしたらゾッとする。それより前は何でもかんでも否定していたからだ。

昔のインターネットはそういう風潮が強かった気がする。クリスマスというイベントですら否定していた。何もかもを否定することがアンチ社会としてのインターネットとして機能していた。

今はどうかといえば、社会とインターネットの間に何の差もなく、ただ社会の拡張された空間がインターネットになっているだけだ。

いい人戦略を身に着ける

さて、ではどうやったらいい人戦略を身に着けられるのかという話になってくる。自分の場合は女児向けアニメや日常系アニメを大量に視聴することで、思考の矯正を行った。

これも自分の中で「いい人の(のように見える)方が得だな」という確信が無いとできないことではある。自己の思想を変えるというのは筋トレみたいなもので、やろうという意志があれば案外できる。まだ20代中盤だったからというのもあるかもしれない。

とはいっても、日々の暮らしをしていると段々といい人思考が剥がれていってしまう。何事にも文句を言いたくなってくるのだ。

そういう時はまたアニメを視聴する。そうすることで精神をいい人の方向へ寄せている。なかなか大変だが、これもまた普段の運動習慣みたいなもので、やっていないとそれはそれで損をする。

社会生活はわりとそれでうまくいっている気がしている。最近はそれだけでは物足りずに絵を描いてみたり動画制作をしているという感覚がある。アニメ視聴だけでは消化しきれない闇みたいなものを吐き出す場は必要ではある。

動画制作で闇は吐き出せるか

今年のM-1のウエストランド優勝は何かと示唆的ではあった。みんなコロナやらホワイト社会やらで、愚痴や不満を言う場を失っている。そんなことをすればコミュニティから居場所が無くなるからだ。

そんな中で、普段は言えないことを公共の場で大声で面白おかしく言ってくれる人たちが現れたので、半ばヒーローみたいに見えてしまった。

個人的には「M-1のアナザーストーリーうぜえ」というのが一番感動した。自分も思っていたが、いい人戦略の都合上、心のどこかに隠し持っていた気持ちではあるからだ。「あぁ、自分以外にもそう思っていて、こんなに大きな声で言ってくれる人がいるのか」みたいな感動があった。

こうやって自分の代わりに悪口を代弁してくれる人はどこかに存在している。とはいっても、それに便乗していくとこれまた自分の居場所が無くなっていく。

ならばどうすればいいのか。これはもうウエストランドと同様に、悪口や闇を作品の形に昇華する他ない。

人はただの悪口は敬遠するが、そこに労力や面白みを感じられると、逆に評価してしまう。ウエストランドなんかはまさにそれだ。

自分の場合も絵にしてみたり、動画に籠めたりすることで発散している気がしている。これは割りと今日言われてみて気が付いた。

「そんなことはない」と反射的に思ってしまったが、実際はその通りだ。結構入れている。なんならこれがモチベーションの主体となっている可能性すらある。

自分の中では動画制作などのモチベーションは

くらいかなと思っていた。ところが実は

という点が最も重要なのかもしれないとちょっと考えてしまった。実際、動画制作をしていたり絵を描いていたりしている最中は精神が健康的だ。

これは精神が健康的だから動画制作ができるのか、動画制作ができるから精神が健康的なのか、という問題は孕んでいるけども、どっちもどっちな気もする。とりあえずできていれば精神は健康的ではある。

こうして考えてみると、道中はどんなに毒を込めてもいいけど、最終的にはハッピーエンドで終わらせないといけないということかもしれない。そうしないと視聴者に毒だけを与えることになる。そうすると敬遠される。ウエストランドが評価されているのは笑えるからだ。笑えなかったら終わりという状況下はめちゃくちゃ危ない綱渡りだなと思う。覚悟を感じる。

物語調であればハッピーエンドにすれば良い。最後はハッピーエンドだと決めてしまえば、道中で自由に振る舞えるかもしれないとちょっと考えた。

日記をネタ元にする

明日からRiJが始まる。これは非常に楽しみだ。なんだかんだ毎年楽しみしてしまうイベントではある。RiJが始まらないと年末を感じることができない。

今回はわりと頻繁に見ていたアンサガRTAの人が出るのでそこも非常に楽しみにしている。良いイベントになれば良いなと思う。

動画制作のネタに詰まったらどうしようかなと考えることがある。その時の為に日記を書いているフシがある。今であればRiJとかもネタにできるなと思える。

結局のところ、自分がいま一番興味のあるものについてネタにするのが一番良い。自分は突飛な発想ができるタイプではない(例えば男性ブランコの音符運びみたいに)ので、日常の中で気になったものをそのまま形にするのが一番気楽にできる気はしている。

いい人戦略だってそうだ。これも頑張ればネタにできそうではある。基本、1週間前に考えていたことなどは完全に忘れているので、定期的にストックしていくと良いのかもしれない。前期面白かったアニメとかも完全に忘れている。今期面白かったアニメとかもまとめた方がいいっちゃ良い。

M-1の感想とかも書こうと思えば書けるのだけども、なぜかそんなにやる気にならない。日記習慣なぁ、という感じだ。

日記ってのは何らかのテーマを決めて書くという感じではなく、書き始めてから自分がいま何について関心を寄せているのかに気付けるという印象がある。だから頻度は基本的に高い方が良い。

でもまぁいいか。ちょうどゲームもやる気しない、アニメや映画も見る気がしない、動画制作もする気分でもない、ただ体力が余っているというタイミングで書いている。

そういうタイミングで書くなら、それはそういう流れに委ねれば良いのかもしれない。気が向いたらで良い。