良い感じの絵の飽き

良い感じに絵を描くことに飽きてきた感じがします。慣れてきたが故の倦怠のようなものを感じます。果たして自分は一体何を目的に絵を描いてきたのか。今になって自己の内面から問われています。

こんなのは何かしら崇高な目的を設定するよりは、「楽しいから」とか「暇だから」みたいな理由で適当に続けるのが正解である、というのは結論として出ているんですが、それはそれとして飽きている。情熱みたいなものは無い。

そもそも情熱なんて必要なんでしょうか? そもそも自分という人間は情熱というものを持つような人間だったのか? なんかこう、絵というのは描いていると外圧のようなものを感じます。「もっとうまくなったほうが良い」とか「練習しろ」とか、そういう外圧を感じざるを得ない。もっと気軽に描いて良いのでは?

日本人は「趣味」というものを崇高な位置に置きたがると聞いたことがあります。外人はクソ下手な楽器でもそれを堂々と趣味と言い切るけれども、日本人はそこそこうまくないと人に趣味とは言えない、というような話です。それに近いのかなんなのか、どうもそういう雰囲気を感じざるを無い。

たとえばこの日記に対して「もっときちんと文章を書け」とか「もっと推敲しろ」みたいな話は無いわけで、絵についてはどうにも高い位置を目指すのが良いというような観念が広がっているような気がする。別にどうでも良いのでは? とは思います。そうではなくただやっていくことにこそ実があるのであって、それ以外は虚ではないかと思うのです。

しかしながらとは言っても、練習してうまくなるという点に良さがあることも事実です。梅原大吾は言っています。ゲームに飽きたのではなく、そのゲームが上達しなくなったから嫌になっているだけだ、とかなんとかなんとか。上達している限りにおいて、その行為に飽きるということは無いみたいな話です。

上達を意識している限りにおいて、色々と考えることが多くなるので飽きるということはありません。ですが、自分はゲームなんかも一つのことを追求するというよりは、あらかた雰囲気が分かったら飽きてしまう方なので、そういう性格が絵にも作用しているのかもしれません。

そんな感じで生きています。だいぶふわふわとはしていますね。なんか別に目的とか無いんだよなぁ、と思います。むしろその場その場が楽しければそれで良い。いまのこの一瞬が面白ければそれで良いわけで、未来のことをきちんと考えられる人はスゴいなあと思います。そんな思考回路はどこかへ廃棄してしまった。

煙草を吸っているときが一番幸せかもしれませんね。あ~っ、と思いながら適当に喫煙しているときしか真の幸福はない。

面白いゲームをしているときには時間がすぎるスピードは早くなりますが、それでだからといって、幸せかと言われるとそうでもない。思考を放棄して空中に漂わせているときの方が幸せだったりします。なんか面白いから面白い、とも一概には言い切れない気がするんですよね。最近は。

面白くないものこそが面白いというか、面白くない時間こそ実になっているというか、刺激というのは別に面白いことではない、というか。まあそんな感じです。きちんと整理せずにそのまま意識を吐き出すのが気持ちいい、とかそんな感じですね。

理性的にきちんと現実を峻別するのか、それとも理性を曖昧にさせてただフローの中に漂うのか、その違いです。どっち方向でも良いんですけどね。

あー、なんか分かってきた気がするな。自分が絵に求めていたのはどちらかというと、理性を曖昧にさせる方向です。つまりは、頭をふわふわさせて、その中から出てきたイメージをボケッと垂れ流すイメージを絵に対して持っていたんですが、ところがそうではなかった、という感じですね。

きちんとうまくなろうとするとそこには方法論があるし、必要な知識があるし、整理された手順がある。それは理性的なものであるわけです。要するに仕事と変わらない。まあ仕事をできているからこそきちんとした人に評価される絵になるのかもしれませんけれども。

でもまあ、時にはそうしたものを忘れてもっとイメージ的というか、境界を曖昧にさせても良いのかもなあという感じがしています。もっと脳のたがを緩めても良いんじゃないかな、という気分です。

PDCAが回ってきたというか、絵を上達するにあたってどういう手順を繰り返せば良いのか、というメタ的な経験はできた気がします。あとはこれをグルグル回すだけになってしまっている。つまりは、絵は上達するけれども、絵を上達させるための方法論は固まってきてしまっている。そこに飽きがあるのかもしれない。

となるとまあ、上達するのは別にこちらも歓迎すべきことなのでグルグル回していくとして、そうではない部分、つまりは曖昧な部分を増やせばもうちょい絵を描くのが楽しくなるのかもしれません。理性で峻別となるとプログラミングと同じになってきますからね。いや、プログラミングをしていても些末な部分は理性的あっても、全体像は曖昧な脳の箇所を使っている場合もあるから少し違うか。絵に対してそういうバランス感を失っていたのかもしれません。

どうも理性的であろうという意識が強い気がします。ここに書く日記なんてもっと抽象的で曖昧であっても良いはずなのに、どうしても説明的になってしまったりもする。そういう姿勢が負荷になっているのかも。

趣味であるということを意識して、もっと曖昧な部分を増やすのが良さそうです。人に伝わるように頑張らないというか、他者視点ではなく、ただあるがままを出すというか、そんな感じですね。まあまだまだ分からないことが多いので、何かしら掴めたらまたここに書こうかなと思います。