「楽しい」とは何か

「楽しい」の定義

絵を描くのは楽しいのか楽しくないのか。それについて考えている内に、そもそも「楽しい」を定義したくなってきたので、ここらで一つまとめておきます。

結論から言うと、「楽しい」というのは「没頭」や「集中」と言い換えても良いと感じています。「時間を忘れる」だともっと良いかもしれない。何かに対して時間を忘れて取り組んでいるとき、その行為は「楽しい」と言えるんじゃないでしょうか。

心が湧きだつだとか、嬉しくなるといった事象は前にも書きましたが日常には存在しません。あくまでもたまたま訪れるものであり、普段からそれを求めて生きると碌でもないことになります。精神が疲弊します。「楽しい」とは別箇の事象だと思っています。

ならば日常の中にある「楽しい」とは何か。絵を描いている時の「楽しい」とは何か。ふと気づいたら時間が経っていたとき、その行為は「楽しい」ものなんだと思います。心が湧きだつでもなく、興奮するでもなく、ただ純粋に時間が経過している。その時間の経過後には静かな満足感がある。それが日常の中にある楽しいなのです。

これは勉強をしていても、本を読んでいても、散歩をしていても、アニメを見ていても、ゲームをしていても、なんなら仕事をしていても、何でもそうです。いつの間にか時間が過ぎている。集中している。その状態になれた行為を「楽しい」と定義すれば、人の生活は満足行くものになるかと思います。

もちろんボーッとYoutubeを眺めているだけでも時間は過ぎていきますが、かなり自分にハマるものでないと勝手に時間が過ぎているということはありません。適当な動画を眺めていても数時間が一瞬で過ぎるということは無いと思います。稀に、自分にとって興味のあるドンピシャの動画がある時に、数時間が一瞬で過ぎていく体験はあります。そういうときには楽しいと言えるのかもしれません。

アニメを見ていても1クールが一瞬で終わっていくアニメというのは存在します。最近ではオッドタクシーを視聴しているときには1クールが一瞬で過ぎ去りました。およそ4時間あまりが一瞬に感じる。こういうときには楽しいんだと思います。ふと思いましたが、対象がアニメやマンガやゲームみたいな消費活動だと「面白い」で、絵を描くだったり勉強だったりみたいな生産活動だと「楽しい」になるのかもしれませんね。

どれだけ楽しいのか

前にスターウォーズの旧3部作を見たのですが、エピソード4は一瞬で終わったものの、エピソード5、エピソード6になるにつれて段々と時間の進みが遅くなっていきました。時間経過の体感によって作品の面白さを判断するのは正解かもしれません。楽しいかどうか、その判断は時間の経過スピードにあると思います。

絵について言えば、「絵を描いていると時間をめちゃくちゃ消費する」という感覚があります。これはふと気づくと自分が思っていた以上に時間が経過していることに驚いてそういう気持ちになっています。その点から言うと、絵を描くのは楽しいと言えるのでしょう。下手なゲームをしていると時間の経過は非常にゆっくりになります。傑作だと数日が一瞬で溶けていきますが。

傑作ゲームの時間経過スピードが10だとすると、絵を描いている時の時間の経過スピードは8くらいです。ちなみに仕事でプログラミングをしているときは4くらいで、ノッているときは6くらいになります。あくまでも体感なので適当ですが、まぁまぁこんなもんでしょう。

ブログを書いているときはどうか。ブログは微妙なところで、何か目的があって書いているというよりは、とりあえず書きたいことを書き終わるまでただキーボードを叩き続ける、という感覚なので、あまり体感スピードという概念がありません。まあでも体感で5くらいなんじゃないでしょうか。

昔は勉強を良くしていたわけですが、その時にはかなり時間の経過が早かったように思えます。あれはあれで楽しかったんでしょうね。淡々とやっていたら外が暗くなっている、みたいなことは良くありました。当時から音楽を聞きながら集中するというのが自分に合っていたので、今も何かに集中したいときには音楽を流すようにしています。

神頼み

「これをすると楽しくなる可能性が高い」までは言えますが、その行為が本当に楽しくなるかどうかというのは神頼みになります。あるアニメを視聴して時間が一瞬で過ぎ去るかどうかというのは、そのアニメを見てみるまでは分かりません。なんらかの作業を始めて時間が一瞬で過ぎ去るかどうかも、その行為を始めるまでは分かりません。始める前には楽しいか楽しくないかは決まっていないのです。

だからこそ「絵を描くのは楽しい」だとか「プログラミングは楽しい」とは言うことは難しい。「楽しくなる可能性が高い」であって、なかなか楽しくなれない場合はいくらでもあります。本当に楽しくなるかどうかはやってみないと分からない。ある種の神頼みの精神がここでは必要になります。確約はありません。

だからまあ、「楽しい」を求めようとすると常に神に祈ることになります。「どうか今日の行為は楽しくなりますように」と祈っているのです。逆にこの祈りが無い場合はどんな行為でも義務や仕事と一緒で、楽しくなくなるものになると思います。

ギャンブルみたいなものです。常に楽しくなるとは限らないので、今日は楽しくなるように祈る。意図的に楽しくあろうとすると逆に楽しくなくなったりもします。難しいものです。

忘我

そもそもなんで「時間の経過」と「楽しい」が同義だと思うのか。それは忘我の状態が人にとって最も幸福だと自分は考えているからです。分かりやすいところで言うと、アクションゲームをやっていて難しいボスと戦っているとき、更にはその難しいボスに勝てる戦いをしている時のあの感覚です。ソウルシリーズやSEKIRO、あとは2Dシューティング系などをやっている人であれば感覚がわかると思います。

あの忘我の感覚、日常のあれこれはどこかに遠ざかり、ただ目の前の作業に集中している状態。あの状態が一番心地が良いものです。日常の中で、過去や未来、はたまた直近のアレコレに頭を悩ませている時には人は幸福ではありません。仏教でも言っている通り、人は今この瞬間、目の前のことに意識を集中しているときに一番幸福になれるのです。

ならばこれが「楽しい」なんじゃないかと自分は思うわけです。ゲームをしていて目の前のことに集中していたらいつの間にか時間が経っている。はたまた絵を描いていていつの間にか夜になっている。勉強をしていて気づいたら外が暗くなっている。その間の記憶はそんなに無いわけですが、その間だけは人は必ず楽しい状態だし、幸福なんだと思います。

そうやって考えていくと、自分はさんざん「絵を描いていても楽しくはない」と主張していた訳ですが、上記の定義ならば「絵を描くのは楽しい」と言えるかもしれません。いまの自分の状況だと、一番忘我できるのは絵を描いていて疲弊している時なのかもしれません。

よく「趣味に金が絡むようになると楽しくなくなる」と言われているのは、忘我するのが難しい状況になるからかもしれません。金というのは生活や未来に密接に結びついています。それらのことを考えながら忘我はできません。どうしても思考のどこかにそれらが絡みついてきます。だから楽しくなくなるのだと思います。

自我を忘れていられる時間を作ると日常は安定してくるのでしょう。自我なんて碌なもんじゃありません。原始仏教の教えは概ね正しい。行為だけがただ人を幸福にします。生活や人生のあれやこれやについて考えるのは時には意味があるのでしょうが、その時間に人は幸福ではありません。何も考えずに目の前のことをやっている時だけが幸福だし「楽しい」なのです。