絵は楽しいか?

この前に配信したときに「絵を描くのが楽しそうじゃない」という話になった。それに対して自分は「いや、楽しいって何?」と疑問を呈してまたいつものように文句ばかり言ってしまったので、ここで改めて意見をまとめておきたい。

そもそも「楽しい」というのは気分を表す感情であり、それこそ鬱病だったら何をしていても楽しくないし、躁病だったら何をしていても楽しい気持ちになる。なんなら何もしてなくても楽しくないし、何もしてなくても楽しい状態というのはあり得る。

鬱病や躁病といった極端な場合でなく、普通の状態であっても何か単純な作業をしていて楽しい気分になることは十分にありえる。なんなら百マス計算をしていても楽しくなれるし、こうしてキーボードを叩いていても楽しいし、散歩をしていても楽しい。全くもって楽しくないような文章を書いているけども、これはこれで楽しいのだ。

肝はその作業にノッているかどうか、だけだと思う。掃除だって始めるのは億劫でも、一回軌道に乗りだしてしまえば段々と楽しくなってしまい隅の隅まで整理整頓してしまうことなど、誰にでもある。掃除だって楽しくなれるのだ。楽しいかどうか、というのは行為の対象に依る感情ではない。ノッているかどうかでしかないのだ。

そういった点からすれば、絵を描いていても楽しくなる時間はいくらでもある。ノッてくれば楽しくなれる。逆に、ノッていなければ楽しくはない。楽しい場合もあるし、楽しくない場合もある。他のどの作業とも同じだ。掃除と一緒である。

試しに百マス計算をしてみてほしい。まあする人は居ないだろうけれども、百マス計算だってやってみれば楽しい。やらないから楽しくないのだ。日記を書くのだってやってみれば楽しい。やってないから楽しく見えないだけだ。作業というのはなんだって同じなのだ。

そういった意味で「楽しい」という言葉には差別化の意識が乏しい。他の作業と今の作業を区別する意味合いにおいて、「楽しい」という言葉は意味を持たないと思っている。なぜならなんだって楽しいからだ。散歩をしてみてほしい。散歩は楽しい。仕事をしてみてほしい。仕事だって楽しいと言えなくもない。始めるのはダルいけれども。でも始めるのがダルいのは散歩だってなんだって一緒だ。全て一緒なのである。

一方で「面白い」という言葉には差別化の意識が感じられる。その作業のどこが面白いのか? 例えば百マス計算を「面白い」と言ったときに、人は「それのどこが面白いの?」と聞くだろう。それに対して百マス計算をしている人は「マス目が埋まっていくのが快感」だとか「延々を手を動かし続けるのが気持ちいい」とか「簡単に集中モードに入れるのが興味深い」とか、いろいろな答えがある。

「何が楽しいの?」と聞かれてもまあ「マス目が埋まっていくのが楽しいんだよ」と答えることもできるけれども、どうしても「何が楽しいの?」に対して「~~~が楽しい」という返答になってしまいがちだ。自分としてはこれは説明になってないんじゃないかという気がする。「何が楽しいの?」「マス目が埋まっていくのが快感なんだ」と答えてもいいけど、それなら「楽しい」じゃなくて「快感」だろうが、と「楽しい」という言葉の定義がいまいち分からなくなる。

まあこれは全て自分の個人的で気持ち悪い拘りみたいなものだからどうでもいいんだけども、「楽しいか否か」という問いには一種の無思考性を感じてしまって嫌いだ。客観性がない主観的な態度であり、ただ「好きか嫌いか」で語っているに過ぎない。子供なら許されるけど、大人ならなんだって楽しいし、なんだって楽しくないだろうと思ってしまう。

いやほんと、子供ならいつだって楽しい。女子高生の大多数は日常を楽しく過ごしている。それに引き換え大人のおっさんは常に楽しくない。基本的に楽しくないし、楽しいと感じることは稀だ。そんな状態が日常の中で、果たして一つの行為を無条件に「楽しい」と肯定することは可能なのか? ってことを考えてしまう。子供や女子高生の「楽しい」とおっさんの「楽しい」は同意ではない。

楽しいを求めるのであれば他にいくらでもできる作業はある。なんなら自分は散歩しているときが一番楽しい。生きている実感をすぐに得ることができる。金を稼ぐのだって楽しいし、ゲームをするのだって楽しい。そんな無数に選択肢がある中で、なぜ絵を描くのか? 重要なのはその点じゃないだろうか。

楽しいから絵を描いている訳ではない。これは必ずしも絵を描くことが楽しくないというわけではなく、絵を描くこと以外でも楽しくなれるという意味だ。だからこそ「面白いから絵を描いている」と答えることになる。興味深い点がたくさんあるから絵を描いていると言える。

たとえば「チャート式みたいなマニュアル化された上達の過程が絵を描くことには存在しない」とか「イメージを形にする工程が未だに言語化できない」だとか「描いているけれどもうまくなってるかどうか分からない」だとか「絵の教本って突き放しがちに思えるけど、こんなのは言語化できない技能だから仕方ないんだ、と段々と分かってきた」こととか、まあそういう点が面白いと言える。興味深いと言い換えても良い。

こういった"面白い点"が無ければ作業なんて続かない。絵を描くことが楽しい瞬間はあっても、それはすぐに日常の楽しくなさで埋もれてしまうからだ。散歩だって続けるのは難しい。百マス計算だって一度やってみたら楽しかったとしても、それを毎日続けるには何らかの理由が必要だ。そこで「その行為の何がそんなに面白いのか?」を自分自身で認知している必要がある。「楽しい」だけでは続ける理由にならないのだ。

嬉しいという感情もある。単純に「やっているとうまくなっていく」だとか「人からいいねや褒めが貰える」だとかだ。でも嬉しいという感情は他者に依存しがちだし、必ずしも継続的に得られる感情ではない。たまに貰えるご褒美みたいなものだと思った方が良い。基本は「面白い」という感情しか役には立たない。

「楽しい」は刹那的だが「面白い」には継続性がある。「嬉しい」は確定的ではない。継続性のある感情でないと人はなにかの作業を続けることはできない。風呂に入ったら気持ちよくなれることは知っていても、風呂に入る直前は毎回億劫になる。それと一緒だ。もしそれをやったとして楽しくなれると知っていたとしても、人はその行為を始めることができない。他になにかしら理由が必要なのだ。

だからこそ常々「何が面白いのか?」を認知しておいた方が良い。おっさんの趣味なんてものはそこがハッキリしていなければ続けることなどできないだろう。