すべては日常と化す

近所のサウナ行くことが定期的な習慣となってきました。バイクに乗って銭湯へ行って飯を食ってサウナに入って出てゆるキャンを読みます。それをした後はもう寝るだけ。何も思い残すことはありません。一日をすべてやりきった感じがでます。

ところが今日はそれをしてもいまいち満足し切ることができなかったのでこうして日記を書いています。おそらくバイクで銭湯へ行くことにも慣れてしまったのでしょう。週1以上の頻度で行っていればそれは日常になってしまいます。日常に満足することは難しいものです。

そういった意味で、絵を描くことも日常になってしまいました。絵の練習をしたり、描いた絵をネット上にアップロードしたりすることは、最初はその全てが新鮮な行為でしたが、今となっては日常です。それは良いことでもあり、悪いことでもあります。要するに、我々の大敵である「飽き」が忍び寄っているということです。

こうして日記を書いているのもその証でしょう。文章を書くことを合間に入れることで、どうにか飽きないようにしているのかもしれません。やれば面白いけれども、それでもそこから得られるものが段々と少なくなってくる。ダニングクルーガー曲線を思い出しますね。あれと一緒です。最初こそ新鮮で色々と得るものがあるけれども、段々と得るものが少なくなってくる。一方で熟練度は上がっていく。

プログラミングでも同じ現象が起きています。今となってはプログラミングをすることは何も新鮮なことではありません。もう日常のようにできます。それこそ文章を書くようにプログラミングをすることが可能です。ではそれをプライベートの時間にやっていないのはなぜかというと、必要性が無いのと飽きているからです。

せめて必要性があればやるんですが、今の所プログラミングが必要となる場面に日常で出会っていません。頭の中で「これは必要である」と思えるようなサービスも思いつきません。だからやっていないわけですね。分かりやすい。

絵についてはその現象のまだ浅瀬に居ますが、このままでいくと「別に描かなくてよくない?」というような状況になってしまいそうで、今の段階で少し危惧しています。プログラミングだって「別に書かなくてよくない?」になっているし、絵にそれが起こらないと言い切ることはできません。

やろうと思えばやれるけれども、別にやらなくても良いこと。そういったことってのは生活にたくさんあります。それを続けるというのは至難の業です。自分の場合はプログラミングにも絵にも運命を感じていません。バイクにも運命は感じていません。そうやって考えていくと、なんだか今の日常が酷く不安定で、曖昧なもののように感じられます。

果たして人間はどうすると幸せになれるのか? 昔は未知の状況が多かったので、それを既知にするべく頑張っていました。勉強なんかはまさにそういうことですね。知らないことを知っている状態にすること。でもそれをすればするほど何がなんだか、方向性が分からなくなっていくようです。

まぁ、考えすぎなんでしょうね。別に考えなくても良いことを考えてしまっている。こういうときは寝てしまうに限ります。朝になれば昨夜に考えていたことなんてキレイさっぱり忘れて、その後にやってくる現在のことでいっぱいになります。それが健康的な姿というものです。

それでも問題提起くらいはしておきたい。突き詰めて考えていくと、その場その場で面白いことをチョロっと考えていくしかないような気もしています。流行っているアニメが面白ければそれでヨシッなのです。そこから潜れば潜るほど、玉ねぎのように剥いても剥いても身が出てこない状況に陥ります。そういったときは表面上のもので満足するしかないのです。身なんてものは存在しません。

だからまあ考えないようにした方が良いのでしょう。この日記が存在している理由は、日常において考えないように済むようにするためです。日頃からこんなことばかり考えていたら鬱になります。どこかで吐き出しておいて、それを外部化するという行為は大切なものです。

そんなわけで、まぁ、「今が面白ければそれで良い」を続けていくしかなさそうです。昔からその時その時が楽しくて生きていた訳ですから、今更それを変えようとしても無駄かもしれません。今ここにある何かが面白いのであればそれで良い。

露天風呂で月を眺めてそれがキレイに思えればそれで良いし、サウナ後に吸うタバコが美味しければそれで良いし、雑魚寝して読むゆるキャンが面白ければそれで良いのです。なんなら仕事をしていて、一つのタスクが完成したらそれで満足すれば良いし、合間に吸うタバコが旨ければそれで良いし、同僚と話して面白い話が聞ければそれで良いんじゃないでしょうか。

絵も一緒だし、バイクも一緒です。その時その時が楽しくあること以上に望むべくないのかもしれません。

日記というのはそういう一瞬一瞬を保存しておくために在ります。半年前に自分が何に夢中になっていたのかなんて、そんなことは忘れて人は生きていきます。初めてバーバパパに出会ったときに感じた感動を保存できるのは日記の醍醐味です。

絵も溜まってきて、1枚1枚の絵を完成させた時の喜びみたいなものが、記憶の中で徐々に薄まってきています。アニメを何本も見ていると一つ一つの作品の記憶が薄まってしまうのと一緒です。人生で最初に見た数本の記憶が記憶の中で光るのは当然ですよね。

だからこそ今後は日記を書いて、絵なりサウナなりバイクなりゲームなりの進捗をきちんと記録するべきなのかもしれません。幸い、サウナへ行くと頭の中が空っぽになって日記を書く気になれるようです。そんな感じで気楽に行きたいですね。